おおいた遺産

(84)大分市高田の「輪中」集落群

[2010年06月14日 15:02]

大野川とともに暮らしてきた高田地区。独特の水防対策が施され、家屋敷は石垣を積んで高くした土地に構えている

 大分県最大の河川である大野川は、河口部にデルタを形成するきっかけとして乙津川を分流させた。本流と分流はいったん1・5キロほど離れるが、3キロ余り下って再び近づき、両川の間は100メートルほどにまで狭まる。ここに350ヘクタールもの大きな中州が生まれた。これが高田地区である。眺め下ろすと楽器の形に似て、琵琶の州とも呼ぶ。
 古くから高田地区に住みついた人々は大野川とともに暮らしてきた。「母なる川」は多くの恩恵を与えてくれたが、その半面、たび重なる洪水で人々を痛めつけた。そのため住民は江戸時代以降、中州を堤防で囲んだ。高田輪中(わじゅう)集落の誕生である。
 輪中は独特の水防対策を工夫した。家屋敷は石垣を積んで高くした土地に構える。1階は壁を設けず開放的で、鉄砲水への抵抗を軽減させて家の流失を防ぎ、2階への階段は幅を広く取って避難の便を図る。土蔵は母屋より一段高く築いた石垣を基盤とし、非常食や生活必需品を納め、小舟まで用意した。さらに周辺には生け垣のほか、大木を植えて水流を制御し、時にはそれに登って水を避けた。
 江戸初期の領主・加藤清正の溢流堤(いつりゅうてい)に始まり、輪中は次第に強固になったものの、水害は昭和初期までに60回を数えたという。昭和4年に行政は計画高水量を毎秒5千立方メートルとしたが、昭和18年と20年には8千立方メートルを超す洪水に見舞われる。これによって堤防の強化や分流堰(ぜき)の建設が進み、現在では危険はかなり去った。
 だが、それによって川に対する住民の意識も次第に変化し、宅地化で新しい人も増えた。今では2千世帯以上。かつては川と共生し、住民は水防共同体を構成して連帯意識を重視してきたが、それが次第に薄れているともささやかれる。輪中文化も変ぼうしているのか。

文  梅木 秀徳
写真 宮地 泰彦

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