津波の傷跡が残る福島県広野町の海岸部。左側に見える煙突は東京電力広野火力発電所。海岸沿いに20キロ行った所に福島第1原発がある=2月13日
1軒だけが営業
福島県二本松市から車で同県太平洋側の浜通りに向かった。阿武隈高地を下り、常磐自動車道を北上すると、広野町の広野インターチェンジ(IC)で通行止めになっていた。その先は福島第1原発から半径20キロ圏内の警戒区域に続く。
広野ICから見て海側に、日本サッカー協会のトレーニングセンター「Jヴィレッジ」がある。福島第1原発事故後、同施設は事故対応の前線基地になり、作業員らが暮らすプレハブ住宅や大手電機メーカーの対策本部が設けられた。
同施設の近くにいた警備員に警戒区域内の様子を尋ねた。「佐賀から来たばかりで分からない。この先は駄目」と、そこから先の立ち入りを禁じられた。
広野町中心部は“シャッター通り”だった。JR広野駅近くの商店街で1軒だけ開いていた精肉店の鈴木祥子さん(49)は「今日は近くの病院で週1回の診療があるから人がいる方。避難先のいわきから電車でやって来る人もいる」。
同町中心部は、海岸線から約500メートルの広野駅手前まで津波が押し寄せた。鈴木さんは「テレビに映った津波を見て外に目をやったら、津波が迫っていた。近所に声を掛けて高台に逃げた」と振り返る。
翌日、町内放送が原発事故の発生と避難を告げた。「どこに逃げていいのか分からなかった。大事な物だけ持って郡山まで逃げた」
同町内の全域が、福島第1原発から半径20~30キロ圏内の緊急時避難準備区域を解除されたのは昨年9月30日。人口5300人の町で、これまでに自宅に戻ったのは約250人。赤色灯をつけたパトカーが日中も巡回していた。
側溝では20マイクロシーベルト
テオ・ヤンセン展で使った砂を、子どもたちが安心して遊べる砂場を作るために届けた二本松市の「屋内の大地」に戻った。
プロジェクトに参加する中小企業診断士の佐藤健一さん(56)=同市=は「空間放射線量は落ち着いても、そこの側溝の放射線量は毎時20マイクロシーベルトあったりする。そんな場所が身の回りのあちこちにある」と話した。
「セシウム137の半減期は30年。屋内の大地も最低30年は続けないと…」
同プロジェクト代表のアサノコウタさん(28)=福島市=は今後、長期に及ぶ活動を見据えていた。
30年先。それは東日本大震災から今日までに生まれた子どもが親になる頃だ。福島で見たことを、それまで忘れないでいよう。
(「テオ・ヤンセン展」実行委員会事務局長・編集委員 佐々木稔)
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