昭和の町を走るボンネットバス
豊後高田市の中心部、中央通り、新町、駅通りなどの商店街で構成されるのが「昭和の町」である。通りの延長は500メートルほど。ここにたくさんの古い店舗、住宅などが並んで、「ありし日の昭和」が演出され、観光客、買い物客の人波が絶えない。
豊後高田は地理的に関門の町として発展してきた。南北は内陸部から国東半島へ入る道が、西から東へは豊前から豊後に入り、半島の東部から杵築方面へ向かう道が交わった。海路は周防灘から瀬戸内海へと通ずる重要な港だった。文化的に見ても、宇佐八幡と六郷満山(ろくごうまんざん)を結ぶ「神と仏の里」である。
時代ごとに、その商店街は栄え続け、近代で最盛期にあったのが昭和30年代だったという。しかし、昭和の後半から平成の初めにかけて、郊外に大型店が立地したり、過疎化が進んで、次第に衰退への道をたどらざるを得なかった。そのため新しい建物はなかなか建たず、今も古いままの建物が7割を占める。
古い街並みを生かしての地域再生は、大分県内の場合、ほとんどが江戸期のもの。「天領の町」「歴史の道」「城下町」などである。だが、江戸期の高田は島原藩の飛び領で、陣屋はあっても城下ではない。そこで「良き時代の昭和を」という発想によったのが「昭和の町」だった。
今年で10周年。中心市街地活性化基本計画に沿って、官民合同の努力で今や全国に知られる街並みとなった。古い建物が生かされ、歴史、商品、商人の再生が軌道に乗っている。
昭和ロマン蔵などの常設展示があれば、街角での紙芝居も。昔のボンネットバスが走るかと思えば、なつかしい駄菓子やゴールデンバット(たばこ)も売られている。冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビの「三種の神器」も並ぶ。
その底には、時代を貫く高田商人の自信と誇りがある。
(文・梅木秀徳 写真・宮地泰彦)
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